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髙橋 智紀先生が 能登半島地震の災害支援を行ってきました
能登半島地震DMAT災害支援報告
髙橋 智紀
今回DMAT隊員として能登半島地震の災害支援を行ってきましたので,活動内容を御報告させて頂きます.
隊員構成としては医師が私,看護師2名,薬剤師1名,臨床工学技士1名の計5名で出動しました.隊員は全て複数回の出動経験があり,私自身も4年前の熊本豪雨災害に続く2回目の出動でした.1月1日の発災から既に多数のDMATチームが石川県から近いブロックから要請・出動しており,我々は第5次隊として出動しました.
1月10日水曜日夕方に石川県ならびに日本DMATより四国ブロックの出動要請がありました.実は1月1日の発災当初から,自動待機基準*に当てはまる災害であったものの,DMAT出動ルール**から今回の出動はないだろうと勝手に予想してため,四国ブロックの要請は寝耳に水でした.1月11日木曜日の午前中に正式に徳島県から徳島大学へ出動要請があり,私の出動が決まりました.資機材の準備や持参する薬剤の指示を行いつつ,仕事の申し送りや外勤の調整等を急いで行い,自宅へ帰り防寒グッズや1週間分の下着類を詰め込むなど出動に向けた準備をしていたら,気付けば夕方になっていました.高速道路の通行証が警察から発行されたことを受け,19時過ぎに徳島大学を出発し,北陸道経由で午前2時ごろに金沢市内に到着しました.その日はホテルに一泊しました.
翌日は,私がDMAT隊服や防寒用のアウター全てを大学に忘れるという不始末をしでかしたため,朝7時開店のワークマンに飛び込み,防寒用の上下セットを購入したことから始まりました.その後,参集場所の能登総合病院へ到着し,本部より今後の活動指令を受け取りました(図1).DMAT隊は,参集場所で活動指令を受け取るまでは,事前にどこでどのような活動を行うか一切分からないため,緊張する瞬間でもあります.今回我々は,能登町へ行き能登町調整本部の傘下で活動するよう指令を受けました.
能登半島は平地が少なく,海岸線と山々という構造だったと思います.能登半島を一周するように海岸沿いに国道249号線があり,あとは山々にいくつかの県道があるという交通網でした.ところが,今回の地震でこの能登半島の大動脈ともいうべき国道249号があちらこちらで陥没等の被害をうけ,これが復旧の遅れの原因ともいわれる様相でした.実際に我々が活動していた時は,西側の国道249号線は使用出来ず、輪島市や珠洲市,能登町といった能登半島北部への道は,能登総合病院のある七尾市から穴水町までの一本道しかない状況でした.さらに現地で活動する支援チームはDMATの他にも多岐にわたり,前述のごとき道路状況とこれらの支援車両に加え,セメントや資機材を運搬する大型トラック,さらに現地住民の方々など多くの車両が能登半島へ入るため,七尾市から穴水町まで大渋滞となり,35kmを通過するのに5時間かかりました(図2).結局,途中宿泊を含みながら2日間かけて能登町へ入りました.能登町へ入った当日はすでに夕方であったため,ミーティングに参加し病院ロビーのベンチで就寝しました.
翌日は本部待機を命じられました.前回の熊本豪雨災害の際もそうでしたが,DMAT隊員として出動すると,様々な方に「ご苦労様でした」とか「よく頑張ったね」と労いの言葉をかけて頂きます.また患者さんにも「先生は徳島を代表していったものすごい先生なんやなぁ,ワシはそんな先生に診てもらって鼻が高い」とまで仰って頂き,非常に心がむず痒くなります.なんのことはありません,この2日目のように“ほとんど仕事がない”日も存在するのです.災害地域へ到着し,頭の中でアドレナリンが徐放されている我々にとって,この待機の時間は非常に辛く,そわそわ落ち着かない様子で『ダイジョブ,ウン,まぁ待機も立派な仕事だからね,今のうちに体を休めて,イザとなったら動けるようにしておこう』などとお互いに励ましあいつつも,何か仕事はないものかと待機室と本部を行ったり来たりしていました.EMISという情報管理システムを逐一みながら,「どこそこのチームはコッチに行ってるー!」「あのチームはこんなことしてるー!!」などと聞かれもしない情報を確認しあったものです(図3).そうこうしているうちに1日が終了し,ほぼ何もしていない我々でしたが,何故か本部の指示で就寝場所が病院ロビーのベンチから病室のベッドへアップグレードされました.一日屋外で活動して疲れが溜まっているであろう他病院のチームが役所の固い床で雑魚寝しているのを横目に,荷物と罪悪感を抱えてそそくさと病院へ移動しました(図4).
3日目はようやく避難所スクリーニングという大役を授かりました.我々が活動指令をうけた能登町は能登半島北部に位置する町です.氷見寒ブリに対抗した“のと寒ブリ”,イカ漁,ブルーベリーなどが名産であり(すべて現地で知りました),65歳以上が全体人口の50%を超える限界自治体の一つで,町全体が過疎地域に指定されているようです.そのため,自宅避難者や集会場などの小規模な自主避難者が存在しているようでした.そのような,行政やDMAT調整本部も把握出来ていない自主避難者の様子を伺いに行く仕事です.前日一日ほぼ仕事をせず,あまつさえもフカフカのベッドで暖をとった我々は意気揚々と集落から集落を車で駆け巡りました.
4日目と5日目は能登町の小木地区で開業されている小木クリニックさんの診療支援を命じられました.能登半島全体が被災し,多くの小規模クリニックが診療を再開出来ていない状況にも関わらず,同クリニックはいち早く診療を再開しておられるようでした.院長先生や職員の方々も被災されているため,診療受付は午前10時から13時までとなっておりましたが,院長先生はその後も求めに応じて訪問診療や夜間診療もされており,発災からずっと病院のベンチで寝ておられるとのことでした.当然多くの方々が病院に押しかけ,中には隣接市町村から車で来られる患者さんもいたほどです.我々は少しでも負担を減らすべく,発熱外来と薬局業務を担当しました.現地はコロナとインフルエンザが猛威をふるっており,我々が診療した際も陽性率は7割を超えていました(図5).
最終日の6日目は午前中のみの活動であるため,能登町内の障害者施設のスクリーニングを行いました.我々がスクリーニングした施設は幸い甚大な被害は免れており,特に健康状態も問題なく,物資などの支援も受けられている状況でした.これらを調整本部に報告し,まだ現地へ残る他病院のDMAT隊員の方々に別れの挨拶をして能登町を発ちました.
今回の出動における活動報告は以上になります.この度の支援活動に際して,急な出動要請にも関わらず出動に際して快く送り出して頂いた佐田教授をはじめとする医局の先生方に御礼を申し上げます.徳島大学循環器内科医局は各々の医局員が活躍できるよう柔軟にサポートして頂ける医局です.最後になりますが,本災害に被災された方々に,心よりお見舞い申し上げます.
注釈)
* 1:震度7の地震が発生した場合,2:津波警報が発表された場合.これらの場合には,すべてのDMAT指定医療機関は被災の状況に関わらず,都道府県,厚生労働省等からの要請を待たずに,DMAT派遣のための待機を行う.その他,所属するブロックにより自動待機基準が存在する.
**当該都道府県→隣接都道府県・該当ブロック→隣接ブロック→全国の順に出動要請がある.今回の能登地震の場合は,石川県→中部ブロック所属医療機関→関東・関西ブロック所属医療機関→全国の順に出動要請があった.